ラッシャー木村の金網デスマッチ、その歴史と伝説は?金網の鬼とは!?
💡 ラッシャー木村は、国際プロレスで金網デスマッチの鬼として活躍した
💡 金網デスマッチは、当初はプロレスファンの間で賛否両論あった
💡 ラッシャー木村は、金網デスマッチだけでなく、マイクパフォーマンスでも人気を集めた
それでは、ラッシャー木村さんの金網デスマッチの歴史について、詳しく見ていきましょう。
金網の鬼、ラッシャー木村の誕生
ラッシャー木村さんの金網デスマッチ、聞いてるだけでもドキドキしますね。
✅ 1970年10月8日、国際プロレスが大阪にて日本初の金網デスマッチを開催。これは、当初予定されていた外国人選手の来日が妨害により頓挫したため、苦肉の策として行われたものでした。
✅ 当日まで秘密にされていたこのデスマッチは、ラッシャー木村の売り出し策でもあり、木村は大流血しながらもドクター・デスをKO。試合後、TBSには「残酷すぎる」という抗議が殺到し、以降金網デスマッチの中継は自粛されました。
✅ しかし、この金網デスマッチは大きな話題を呼び、国際プロレスの目玉として定着していきました。
さらに読む ⇒Yahoo!ニュース出典/画像元: https://news.yahoo.co.jp/articles/cbfa3541d10f88685b0d82b9726fca1e323c73ee木村さんの流血シーンは衝撃的だったでしょうね。でも、この試合がきっかけで、金網デスマッチが国際プロレスの代名詞になったんですね。
1970年10月8日、国際プロレスは大阪府立体育館でラッシャー木村vsドクター・デスの日本初の金網デスマッチを開催しました。この試合は木村の勝利に終わりましたが、TBSでの放送後、残酷だと抗議が殺到し、以降は金網デスマッチは放送されなくなりました。しかし、吉原社長は金網デスマッチを木村の代名詞にしようと決意し、12月12日に東京・台東体育館で木村vsオックス・ベーカーの金網デスマッチを開催しました。この試合は、日本プロレスのB・I砲vsキニスキー&バレンタインというビックカードに対抗するために組まれたもので、台東体育館はキャパが小さかったものの、金網デスマッチを見るために5000人超満員札止めとなりました。試合は、ベーカーが木村を金網に打ち付けて流血させ、レフェリーをも噛みついてイスで殴りつけるなど、荒々しい展開となりました。木村は右足の骨折という重傷を負いながらもスリーパーでベーカーを絞め落とし、勝利を収めました。
え、めっちゃ怖い試合やん!血がドバドバって…
おぉ、木村さん、めっちゃ強かじゃん!金網デスマッチ、見てみたいなぁ。
あら、昔のプロレスは、血が飛び散るような荒々しい試合が多かったのね。今のプロレスは、ちょっとおとなしいわよね。
国際プロレス vs. 日本プロレス、興行戦争勃発
国際プロレスと日本プロレスの興行戦争、まさにプロレス界の激動の時代ですね。
✅ 「国際プロレス」の33周年を記念したムック本がベースボール・マガジン社より発行されました。
✅ 本ムック本は、国際プロレスの歴史、レスラーたちの物語、そして貴重な写真画像を網羅しており、当時の熱狂を再び味わえます。
✅ 特に、旗揚げから終焉まで取材を行ってきたベースボール・マガジン社ならではの貴重な写真や、ラッシャー木村やアニマル浜口などのインタビュー、名勝負集などが収録されています。
さらに読む ⇒Old Fashioned Club -オールドファッションド・クラブ-出典/画像元: http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/3323-99ef.html当時のプロレス界は、まさに戦国時代だったんですね。
木村の負傷により、国際プロレスは日本陣営が手薄となり、3月2日に東京体育館で開催するビックマッチに日本プロレスが興行戦争を仕掛けました。日本プロレスは、蔵前国技館大会を1日前倒しし、馬場&猪木vsアリオン&マスカラスのインターナショナルタッグ選手権というビックカードを用意しました。国際プロレスにとって絶対に負けられないこの大会、今後の展開に注目が集まります。
え、まじ?木村さん、怪我してたの?
木村さん、強すぎ!
あの頃は、プロレスも命がけだったのよ。
新日本プロレスにおける金網デスマッチの導入
新日本プロレスでの金網デスマッチ導入、猪木さんの反対があったとは驚きですね。
✅ 新日本プロレスにおける金網デスマッチの歴史は、アントニオ猪木とラッシャー木村の対戦が実現しなかったことから始まり、2003年に高山善廣と蝶野正洋のIWGPヘビー級王座戦で初めて採用されました。
✅ 新日本プロレスでの金網デスマッチは、観客に選手の表情が見えないという理由から猪木が長年反対していたため、猪木引退後に初めて実現しました。
✅ 金網デスマッチは、選手のプライドと実力を試すための特別なルールとして、観客のいないスタジオで行われた棚橋弘至と村上の試合など、さまざまな場面で採用されてきました。
さらに読む ⇒ ベースボール・マガジン社出典/画像元: https://www.bbm-japan.com/article/detail/31462猪木さんが金網デスマッチを反対していたのは、観客に選手の表情が見えないからだったんですね。
この記事は、新日本プロレスにおける金網デスマッチの歴史と、その導入に至る背景を説明しています。昭和のプロレスにおいて、金網デスマッチはオーソドックスなルールでしたが、アントニオ猪木は「観客に表情が見えない」という理由で金網デスマッチを避けていたことがわかります。新日本プロレスが初めて金網デスマッチを採用したのは、2003年8月28日の高山善廣vs.蝶野正洋のIWGPヘビー級王座戦でした。これは、逃げ場のないリングで完全決着をつけるための試みであり、猪木の意見を取り入れた、粗い目の金網が使用されました。その後、2004年3月28日には棚橋弘至vs.村上のU-30無差別級王座戦が、無観客のスタジオで行われました。記事では、棚橋が過去に無観客試合を経験した際の感想や、声援の重要性についても触れられています。
え、猪木さん、金網デスマッチ嫌いなん?なんで?
猪木さん、やっぱり厳しいなぁ。
金網デスマッチって、残酷だけど、見てて興奮するのよ!
ラッシャー木村、伝説のレスラーの生涯
ラッシャー木村さんの生涯、本当に波乱万丈だったんですね。
公開日:2020/05/29
✅ ラッシャー木村さんは、大相撲からプロレスに転身し、日本プロレス、東京プロレスを経て、国際プロレスで「金網の鬼」として人気を博しました。
✅ 国際プロレスでは、サンダー杉山やグレート草津らと共にTWWA世界タッグ王座を獲得し、数々の外国人強豪タッグチームと対戦しました。
✅ また、IWA世界ヘビー級王座に挑戦し、ストロング小林との同門対決で話題を集め、IWAワールド・シリーズで優勝するなど、国際プロレスのエースとして活躍しました。
さらに読む ⇒ 1970年生まれ 男のロマンBlog出典/画像元: https://www.roman-blog.com/pro_wrestling/%E3%80%8C%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E6%9C%A8%E6%9D%91%E3%80%8D%EF%BD%9E1941-2010-7%E5%9B%A3%E4%BD%93%E3%82%92%E6%B8%A1%E3%82%8A%E6%AD%A9%E3%81%84%E3%81%9F%E9%87%91%E7%B6%B2木村さんのプロレス人生、本当に輝かしいものだったんですね。
元プロレスラーのラッシャー木村さんが、2010年5月24日午前5時30分に腎不全による誤嚥性肺炎で死去しました。68歳でした。木村さんは1964年10月に日本プロレスに入門し、1970年に国際プロレスで日本初の金網デスマッチを行い、「金網の鬼」と呼ばれていました。その後は各団体を渡り歩き、1984年に全日本プロレスに参戦し、故ジャイアント馬場さんらとのマイクパフォーマンスで人気を集めました。2000年にはノアに参加し、2004年7月に体調不良を理由に現役引退を発表しました。現役晩年には絶妙なマイクパフォーマンスでプロレス界をわかせた木村さんですが、現役引退発表前後から深刻な体調不調を抱えており、引退後の2004年には脳内出血で倒れて右半身不随となりました。その後は入退院を繰り返していました。木村さんは、故三沢光晴前ノア社長との関係が深く、三沢さんの葬儀には車いすで参列しました。
木村さん、かっこええなぁ!
木村さん、いろんな団体を渡り歩いてたんだね。すごいなぁ!
あら、木村さん、亡くなったの?ご冥福をお祈りします。
金網とマイクで魅せた、ラッシャー木村の輝かしい功績
ラッシャー木村さんの功績、改めてすごいですね。
✅ この記事は、ラッシャー木村さんの思い出を振り返るコラムです。
✅ 記事では、ラッシャー木村さんの多彩なスタイル、特に「金網の鬼」「国際軍団」「マイク」について触れられています。
✅ ラッシャー木村さんの伝説的な活躍と、その魅力が伝わる内容となっています。
さらに読む ⇒ENCOUNT | エンカウント ―日本の「今」がここにある―出典/画像元: https://encount.press/archives/173632/3/金網とマイクで魅せたラッシャー木村さん、本当に伝説的なレスラーですね。
全盛期には「金網の鬼」と呼ばれ、1970年8月に日本初の金網デスマッチでドクター・デスにKO勝ち、1975年にはマッドドッグ・バションと金網デスマッチ初のタイトル戦で勝利し、IWA世界ヘビー級王座を獲得しました。国際プロレスのエースとして活躍した後、1981年の同団体崩壊後は新日本に殴り込み、アントニオ猪木と対戦するなど、各団体を渡り歩いてタイトル戦線にも絡みました。全日本では故ジャイアント馬場さんと兄弟の契りを交わし、ファミリー軍団を結成し、悪役商会との前座試合でのマイクパフォーマンスで「マイクの鬼」と呼ばれていました。普段は口数が少なく、若手を誘って酒を飲むのが好きな温厚な人物だったそうです。2003年3月のノア武道館大会での61歳8カ月でのファイトは現在も日本人プロレスラーの現役最年長記録です。金網とマイクで一世を風靡した名物レスラーを、もう見ることはできません。
木村さん、マイクパフォーマンスも上手かったんかな?
木村さん、めっちゃ人気あったみたいやな!
あら、木村さんって、マイクパフォーマンスも上手だったのね。
ラッシャー木村さんの金網デスマッチ、本当に伝説ですね!
💡 ラッシャー木村は、国際プロレスで「金網の鬼」として活躍した
💡 金網デスマッチは、当初はプロレスファンの間で賛否両論あった
💡 ラッシャー木村は、金網デスマッチだけでなく、マイクパフォーマンスでも人気を集めた