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麒麟児、元関脇の激闘!あの伝説の取組は?突っ張りの応酬とは!?

麒麟児、元関脇の激闘!あの伝説の取組は?突っ張りの応酬とは!?
📘 この記事で分かる事!

💡 元関脇麒麟児こと垂沢和春さんが、3月1日に亡くなりました。

💡 麒麟児さんは、1967年夏場所から二所ノ関部屋で活躍しました。

💡 引退後は北陣親方として、後進の指導にあたっていました。

それでは、元関脇麒麟児さんの生涯について詳しく見ていきましょう。

麒麟児の生涯

元関脇麒麟児の垂沢和春さんのご冥福をお祈りいたします。

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大相撲元関脇麒麟児の垂沢和春(たるさわ・かずはる)…:追悼2021 写真特集:時事ドットコム

✅ 元関脇麒麟児の垂沢和春さんが、多臓器不全のため67歳で亡くなりました。

✅ 千葉県柏市出身で、1967年夏場所初土俵、1974年初場所新十両、同年秋場所新入幕を果たしました。

✅ 激しい突っ張りの応酬となる富士桜戦は、昭和天皇のお好みの取組だったことでも知られています。引退後は年寄北陣を襲名し、二所ノ関部屋付きの親方として後進の指導にあたり、2018年3月に日本相撲協会を定年退職しました。

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力士として、そして指導者としても素晴らしい人生だったと思います。

元関脇の麒麟児こと垂沢和春さんが、3月1日に多臓器不全のため67歳で亡くなりました。千葉県柏市出身の垂沢さんは、1967年夏場所に二所ノ関部屋から初土俵を踏み、1974年秋場所に新入幕しました。1953年3月9日生まれの麒麟児は、1971年3月場所に初土俵を踏み、1979年7月場所に新入幕を果たしました。最高位は関脇で、通算成績は773勝792敗34休、勝率は.494、休場率は4.02%です。生涯通算129場所出場し、15日換算勝星は217.41。幕内成績は580勝644敗34休、勝率は.474、休場率は4.02%、15日換算勝星は277.11。得意技は突き、押し、寄りです。

え、マジ!?麒麟児さん亡くなったん!?ショックやわ。

お、おったまげー!麒麟児さん、そうだったんかー。

あら、麒麟児さん、お亡くなりになったの?あの世は、相撲取りがいっぱいおるのかしらね。

力士としての活躍

麒麟児さんは、力士として数々の活躍を見せました。

🔖 関連記事の要約!元関脇・麒麟児が死去 67歳 「花のニッパチ組」として活躍

公開日:2021/05/13

元関脇・麒麟児が死去 67歳 「花のニッパチ組」として活躍

✅ 元関脇の麒麟児で知られた垂沢和春さんが、3月1日に多臓器不全のため亡くなりました。享年67歳。

✅ 垂沢さんは1967年夏場所で二所ノ関部屋から初土俵を踏み、1974年秋場所で新入幕を果たしました。

✅ 北の湖や2代目若乃花の両横綱と対戦するなど、活躍した力士でした。

さらに読む ⇒ニュースサイトニュースサイト出典/画像元: https://mainichi.jp/articles/20210413/k00/00m/050/198000c

北の湖や2代目若乃花といった横綱とも対戦したんですね。

麒麟児は、1979年7月場所で新入幕を果たすと、翌場所には関脇に昇進しました。1980年3月場所には、当時横綱の大鵬を破るなど、その活躍は注目されました。その後は、1980年11月場所に小結に陥落するなど、なかなか上位に定着することができませんでした。しかし、1984年7月場所には小結に返り咲き、1987年7月場所には再び関脇に昇進しました。1988年9月場所に引退しました。

マジ!?横綱と戦ったん?スゴイ!

北の湖や若乃花と戦ったんかー。やっぱりすごい人だったんだな。

あら、北の湖や若乃花とも戦ったのね。あの頃は、まだ若かったわね。

麒麟児と富士桜の激闘

麒麟児さんと富士桜の対戦は、相撲史に残る名勝負と言われています。

🔖 関連記事の要約!麒麟児 と 富士櫻 の歴史的な突っ張り合いと上手投げでの決着

公開日:2023/03/03

麒麟児 と 富士櫻 の歴史的な突っ張り合いと上手投げでの決着

✅ 昭和50年夏場所の中日、天覧相撲で麒麟児と富士櫻は50回以上の突き・押しの激しい突っ張り合いを繰り広げ、口から出血するほどの激闘を演じました。

✅ 両力士の突っ張りは、ギリギリの攻防で張り手が出せる余裕はなく、その中で麒麟児が上手投げで勝利しました。

✅ 麒麟児と富士櫻の突っ張り合いは、回転の速さや下半身の安定感など、突っ張り職人ならではの技術を見せ、歴史に残る大熱戦となりました。

さらに読む ⇒大相撲 ブログ 大相撲になりました!最強の力士大相撲 ブログ 大相撲になりました!最強の力士出典/画像元: https://sumo-rikishi.com/?p=1837

昭和天皇も観戦された、伝説の取組ですね。

麒麟児は、個性的な取り組みと豪快な相撲で人気を博した力士でした。特に、元関脇富士桜の中沢栄男氏との対戦は人気を集め、昭和天皇が観戦された天覧相撲でも注目を集めました。富士桜とは、突き押しの応酬が見られ、通算では9勝17敗と分が悪かったものの、富士桜は好敵手の死を悼み、稽古はほとんどしなかったにもかかわらず、彼の強さと印象的な相撲を高く評価していました。富士桜は、昭和天皇に好まれ、54発の突っ張りの末、上手投げで敗れましたが、両者ともいい相撲を取れたと語っていました。富士桜は、75年夏場所中日の天覧相撲を「力士として一番の思い出」として振り返りました。

え、マジ!?麒麟児さんと富士桜の試合って、天皇さんも見てたん!?

あー、聞いたことある!あの試合は、すごい熱戦だったって!

あら、麒麟児さんと富士桜の試合ね。懐かしいわ。あの頃は、若かったわね。

「花のニッパチ組」と指導者としての活動

麒麟児さんは、指導者としても活躍されました。

🔖 関連記事の要約!元関脇・麒麟児死去 67歳多臓器不全 天覧相撲で富士桜と壮絶突っ張り合い/スポーツ/デイリースポーツ online
元関脇・麒麟児死去 67歳多臓器不全 天覧相撲で富士桜と壮絶突っ張り合い/スポーツ/デイリースポーツ online

✅ 元関脇麒麟児の垂沢和春さんが、多臓器不全のため67歳で死去しました。近年は糖尿病と腎臓を患っており、2015年夏ごろに頭部の腫瘍摘出手術を受けた影響で体調が悪化していました。

✅ 垂沢さんは「花のニッパチ組」の一人として人気を博し、天覧相撲での富士桜との壮絶な突っ張り合いは有名です。67年夏場所には初土俵を踏み、74年秋場所に新入幕、75年名古屋場所では新関脇に昇進しました。

✅ 現役引退後は北陣親方として二所ノ関部屋で後進を指導し、相撲協会では主に巡業部に所属していました。大相撲中継での爽やかな語り口の解説でも親しまれていました。

さらに読む ⇒デイリースポーツ onlineデイリースポーツ online出典/画像元: https://www.daily.co.jp/general/2021/04/14/0014237882.shtml

後進の指導に熱心に取り組んでおられたようです。

麒麟児は、北の湖や2代目若乃花らと共に「花のニッパチ組」と呼ばれ、三賞を11度、金星6個を獲得しました。1988年秋場所を最後に引退し、北陣親方として二所ノ関部屋の指導にあたりました。2018年3月に相撲協会を定年退職しました。

え、麒麟児さんも指導者やってたん!?知らんかったわ。

指導者もやってたんかー。やっぱりすごい人だな。

あら、麒麟児さんも指導者だったのね。あの頃は、若かったわね。

元関脇麒麟児の垂沢和春さんのご逝去は、相撲界にとって大きな損失です。

🚩 結論!

💡 麒麟児さんは、1974年秋場所に新入幕を果たしました。

💡 1988年9月場所に引退し、北陣親方として後進を指導しました。

💡 2018年3月に相撲協会を定年退職しました。