笠置シヅ子 なぜ忘れられた?スウィング・ジャズの女王と呼ばれた伝説の歌姫!!?
💡 戦前、スウィング・ジャズの女王として活躍した笠置シヅ子の波乱万丈な人生
💡 戦後のブギウギブームを牽引した笠置シヅ子の功績
💡 笠置シヅ子が忘れられた理由とは?
それでは、笠置シヅ子さんの人生を紐解いていきましょう。
笠置シヅ子の誕生からスウィング・ジャズの女王へ
笠置シヅ子さんのルーツからスウィング・ジャズの女王への道のり、興味深いですね。
公開日:2024/03/12
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✅ 「J-POP LEGEND CAFE」は、音楽評論家・田家秀樹が10年目を迎えてリニューアルした番組で、日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。12月の特集は「笠置シヅ子と服部良一」であり、NHKの朝ドラ「ブギウギ」の影響で実現した。
✅ 番組では、笠置シヅ子と服部良一に関する歴史を掘り下げ、ゲストに日本大学の教授・刑部芳則を迎え、コロムビア・レコードから発売された2枚組アルバム「笠置シヅ子の世界~東京ブギウギ~」と「服部良一の世界~青い山脈~」から選曲、解説を行う。
✅ 刑部芳則は、朝ドラ「ブギウギ」の風俗考証を担当しており、昭和歌謡史の研究家として、笠置シヅ子や服部良一について深く解説する。番組では、笠置シヅ子のデビュー曲「恋のステップ」を紹介し、三笠静子から笠置シヅ子に改名した経緯なども詳しく説明される。
さらに読む ⇒マイナビニュース出典/画像元: https://news.mynavi.jp/article/20240312-2904147/笠置シヅ子さんの歌声は、当時の流行音楽の最先端を行くスウィング・ジャズにぴったりですね。
笠置シヅ子は、1914年8月25日に香川県で生まれ、大阪の養父母のもとで育ちました。
幼い頃から歌や踊りが大好きで、13歳の時には芝居小屋で子役として出演するほどでした。
尋常小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験しますが、体格試験で不合格になります。
しかし、その後、東京のレコード会社にスカウトされ、歌手としてデビューしました。
1933年(昭和8年)、松竹少女歌劇団(SSK)に所属し、「秋のおどり・女鳴神」に出演しました。
翌年には日本コロムビアから「恋のステップ」でレコードデビューを果たします。
1935年(昭和10年)には「笠置シズ子」に改名しました。
1937年(昭和12年)には、東京の松竹楽劇団(SGD)に移籍しました。
SGDは大阪時代から人気になっていた笠置シヅ子に期待していました。
1938年(昭和13年)には作曲家・服部良一がSGDの副指揮者になりました。
服部はシズ子の才能に目をつけ、歌手としての指導を始めました。
服部の指導のもと、笠置シズ子は本格的なスウィング・ジャズ歌手として活動を始めます。
スウィング・ジャズとは、テンポが早く、陽気で踊るのにピッタリな音楽です。
笠置シズ子は「スヰングの女王」と呼ばれ、人気を博しました。
え、まじ!?宝塚落ちたん!?でも、スウィング・ジャズってなんか、めっちゃカッコイイやん!
スウィング・ジャズからブギウギへ
戦前戦後の日本の大衆音楽、笠置シヅ子さんの活躍によって大きく変化していったんですね。
公開日:2023/10/10
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✅ この記事は、戦前戦後の日本の大衆音楽史における笠置シヅ子と服部良一の活躍を中心に、当時の娯楽文化と音楽シーンの実態を紹介しています。
✅ 特に、映画「酔いどれ天使」における「ジャングル・ブギー」の歌唱シーンを通して、笠置シヅ子の歌唱力とパフォーマンス、服部良一の楽曲の力強さ、そして戦後の大衆音楽における「リズム音曲」の重要性を具体的に示しています。
✅ また、笠置シヅ子が宝塚音楽学校に合格できなかったことや、服部良一が大阪の下町で音楽を学び、道頓堀のジャズの影響を受けて音楽家としてのキャリアをスタートさせたことなど、2人の生い立ちと音楽への影響について詳しく解説しています。
さらに読む ⇒nippon.com出典/画像元: https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02332/笠置シヅ子さんのパフォーマンスは、まさに時代を象徴するものでしたね。
1939年4月(昭和14年)、東宝が笠置シズ子を引き抜こうとしました。
東宝の益田貞信から誘われ、笠置シズ子は病気療養中の養母の治療費がかさみ、益田に恋していたこともあって高額の契約書にサインしてしまいました。
それを知った松竹の上層部は激怒し、連れ戻された笠置シズ子は半ば監禁状態になりました。
服部良一が東宝と交渉し、なんとか笠置シズ子は松竹に残ることになりました。
1939年9月(昭和14年)、笠置シズ子は服部良一に誘われて日本コロムビア専属歌手になりました。
その後、笠置シズ子は戦時中に敵性歌手として活動を制限されましたが、戦後は「東京ブギウギ」などのヒット曲を連発し、「ブギの女王」と呼ばれました。
おー、やっぱ、シヅ子姐さん、スゴイっすねー!戦時中もがんばって歌い続けたとか、マジ尊敬!
戦後の苦難と再起
笠置シヅ子さんの生い立ちには、想像を絶する苦難があったんですね。
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✅ 笠置シヅ子は、戦後「ブギの女王」として一世を風靡した歌手であり、明るく力強いステージからは想像しにくいですが、生い立ちには苦難がありました。
✅ 彼女は香川県に生まれ、生後まもなく養女となり大阪で育ち、13歳で松竹楽劇部生徒養成所に学び、三笠静子の芸名で初舞台を踏み、17歳で養母であったことを知ります。
✅ 宝塚少女歌劇を受験した際には、歌と踊りには問題なかったものの、身長が低く、厳しい稽古に耐えられるか心配され不合格となりました。しかし、小柄な体格を感じさせないほどパワフルな歌と踊り、そしてその魅力が、彼女を「ブギの女王」へと導いたのです。
さらに読む ⇒JBpress (ジェイビープレス) | リアルな知性で世界に勝つ出典/画像元: https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/77448笠置シヅ子さんの強さと明るさは、困難を乗り越えてきた証なのでしょう。
笠置シヅ子は、1945年(昭和20年)5月、空襲で家を失い、その後、吉本興業の御曹司・吉本頴右と恋に落ちます。
しかし、2人の恋は吉本興業の社長・吉本せいに反対され、困難な状況に陥りました。
1946年(昭和21年)、頴右が結核を患い、療養のため兵庫県の実家へ帰ります。
1947年(昭和22年)1月、東京駅で別れたのが、シヅ子が頴右を見納めることとなりました。
笠置シヅ子は戦後、歌手活動を再開し、1947年(昭和22年)に「東京ブギウギ」を発表。
大ヒットとなり、戦後の代表的な歌手として活躍しました。
その後も数々のヒット曲をリリースし、「ブギの女王」として人気を博しました。
えー、シヅ子ちゃん、かわいそう!でも、ブギウギでみんなを笑顔にできたんやろ?よかったやん!
晩年の笠置シヅ子
笠置シヅ子さんの晩年は、歌手としての成功だけでなく、母としての葛藤もあったんですね。
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✅ NHKドラマ「ブギウギ」は、笠置シヅ子をモデルにした物語で、歌手としての成功と引退、そして娘を育てる母親としての葛藤を描いています。
✅ ドラマでは、笠置シヅ子のモデルとなった歌手・笠置シヅ子と作曲家・服部良一の師弟関係が重要なテーマとして描かれ、二人にとっての「ブギウギ」がどのような意味を持っていたのか、その関係性が深く掘り下げられています。
✅ 笠置シヅ子と服部良一は、音楽を通して深い信頼関係を築き、時には恋愛関係と噂されるほどの親密な関係でした。笠置シヅ子が歌手を辞めてからも、二人で新たな道を歩み続けることを決意し、お互いを支え合う姿は、師弟を超えた強い絆を感じさせます。
さらに読む ⇒Infoseekインフォシーク - 楽天が運営するニュースサイト出典/画像元: https://news.infoseek.co.jp/article/president_80006/笠置シヅ子さんと服部良一さんの師弟関係は、音楽を超えた深いつながりだったのでしょう。
1981年には、思い出深い日本劇場の閉館時に舞台挨拶を行い、自身のブギウギ時代を振り返りました。
晩年は乳がんと闘病し、1985年に卵巣癌のため70歳で亡くなりました。
笠置シヅ子さんは、1985年3月30日に卵巣がんのため亡くなりました。
享年71歳でした。
69歳の時に卵巣がんが見つかり手術を受けましたが、翌年に再発し、闘病生活を送っていました。
晩年は、病院でドラマ「昭和ラプソディ」を見て、自分を演じる研ナオコさんを見て「研ちゃんが私の役をやってくれて嬉しいわ」と言ったのが最後の言葉だったそうです。
シヅ子ちゃん、乳がんとか卵巣がんとか、つらかったやろー。でも、最後まで諦めずに歌い続けた姿は、本当に感動するわ。
なぜ忘れられたのか?
笠置シヅ子さんの功績と、なぜ忘れられてしまったのか、興味深いですね。
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✅ NHK連続テレビ小説「ブギウギ」は、笠置シヅ子をモデルにした物語と趣里による圧巻のパフォーマンスが話題を集めています。
✅ 本記事では「ブギウギ」関連作品を紹介し、劇中歌や劇伴音楽、登場人物に関連するアルバムや楽曲を挙げ、TOWER RECORDS ONLINEの商品ページへのリンクも掲載しています。
✅ ドラマの主題歌「ハッピー☆ブギ」や劇中歌「東京ブギウギ」「ラッパと娘」「別れのブルース」などの楽曲に加え、劇伴音楽や登場人物に関連するアルバムなどの紹介を通じて、ドラマの世界観をより深く楽しめる内容となっています。
さらに読む ⇒Mikiki by TOWER RECORDS | タワーレコードの音楽ガイドメディア出典/画像元: https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/36554笠置シヅ子さんの音楽は、時代を超えて愛され、現代の音楽にも影響を与えているんですね。
笠置シヅ子は、戦前・戦後をとおして活躍した歌手であり、戦前の「笠置シズ子」はスウィング・ジャズの女王として人気を集めました。
戦時中は敵性歌手として当局から活動を制限されましたが、戦後は「東京ブギウギ」などのヒット曲を連発し、ブギの女王と呼ばれました。
その後は女優「笠置シヅ子」として活動し、大阪弁と明るいキャラクターで人気を博しました。
しかし、戦前・戦後あれほど人気を誇った歌手にもかかわらず、現在ではその名前を知る人はあまりいません。
知っている人でも「美空ひばりをいじめた人」、「大阪弁の面白いおばちゃん」くらいの認識です。
「東京ブギウギ」はかろうじて知っているという人もいるかも知れませんが、それを歌っていた笠置シズ子って誰?となる人もいるでしょう。
なぜ忘れられてしまったのでしょうか?笠置シヅ子の楽曲は、日本の戦後歌謡曲の原点でありながら、時代に左右されない明るい魅力を持ち、現在でもたびたびカバーされ、日本のポップスやJ-POPに多大な影響を与えています。
代表曲には「東京ブギウギ」(1947年)、「買物ブギー」(1950年)などがあります。
シヅ子姐さんの音楽、マジ最高っす!最近、若い世代もブギウギ聴いてるんかな?
笠置シヅ子さんの人生と音楽は、戦前戦後の日本の音楽史において重要な役割を果たしてきたことを改めて認識しました。
💡 スウィング・ジャズからブギウギまで、時代の変化とともに音楽を進化させた笠置シヅ子
💡 戦後のブギウギブームを牽引し、人々に希望を与えた笠置シヅ子の功績
💡 笠置シヅ子の音楽は、現在でも多くのアーティストに影響を与え続けている